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2010年 3月 07日

シャネル&ストラビンスキー

カテゴリー 日々の出来事

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家のリビングに飾ったチューリップが暖房の温かさもあり、これでも!かという程花弁を広げ、
少しかさかさになっているにもかかわらず、力強くそのあでやかさを主張しています。
散りゆく最後の瞬間まで、自分の存在をアピールしているようにも見えます。

今日はのんびりとした朝でしたので、音楽を聞きながら、先日観た映画を思い出しました。

「シャネル&ストラビンスキー」昨年からのシャネルシリーズでは第3番目になります。
私は「ココ・アヴァン・シャネル」を観ています。それもよかったのですが、今回の映画はもっとすごい。
シャネルの人間の大きさを感じました。
こんなコメントを引用します。

「事実として記録されているのは、すでにデザイナーとしての地位を確立していたシャネルが、前衛舞踏曲“春の祭典”を否定されて落ち込むストラビンスキーに、資金面だけでなく自宅を彼と家族に提供した、ということだけ。そこから、映画は分野こそ違え同じ革命家の匂いを相手から嗅ぎ取った(であろう)シャネルが、家族が暮らす隣室で幾度も肉体関係を持った(であろう)後に、世間的な常識に屈して別れを切り出した(であろう)ストラビンスキーに見切りをつけるまでの経緯を、さながら家政婦目線で描写。しかし、「お前は見たんか?」と突っ込む気にはなれない。なぜなら、すべての出来事がシャネルの遺した偉大な足跡や革新的な価値観から1ミリも逸脱していないから。」

映画の中のせりふで、ストラビンスキーがシャネルと口論するところで、「きみは芸術家ではない。ただの洋服屋だ」というのがあったのですが、そこで、彼女の彼に対する気持ちがさーっと引いていくのがよくわかりました。妻が出て行ったあとで、急に誘いをかけてきた彼に対し「私はあなたの愛人ではない」と言い放つところも、さすが、です。それでいて、彼の公演に無名で寄付金を投じるところが、ただの恋愛関係で終わらない彼女の自立した女性として、そして器の大きな姿でした。

晩年、ホテルリッツで最後の時を迎えるまで、自立したシャネルはあでやかさを失わなかったことでしょう。

散りぎわのチューリップをみて、そう思いました。

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